謙信御堂と長命寺本堂

 関東平定を達成しようとしていた上杉謙信は、天正六年(一五七八)三月十五日を進発の日と決めていましたが、目的を果たせない

 上杉謙信公位牌

上杉謙信公位牌

まま十三日に亡くなりました。謙信の後継者景勝は、慶長三年(一五九八) 一月会津へ移封を命じられ、三月一日会津に移りました。

 

 謙信の位牌は大乗寺・妙観院・宝幢寺が越後に残って守護しましたが、景勝旧領の領主となった堀秀次の要請を受け、同年八月会津若松城に移しました。こののち慶長六年八月景勝は米沢に転封を命じられ、謙信の遺骸は米沢城本丸西南の御蔵に安置されましたが、同十四年六月本格的な霊廟が造営され、「御堂」と呼ばれ、能化衆十一ヶ寺と御堂衆九ヶ寺が懃仕しました。嘉永二年(一八四九)十二月二十日、「御堂」は火災によって焼失、翌三年八月に再建されました。

 

 明治八年(一八七五)十二月二十七日、長命寺本堂は火災によって焼失しました。当時謙信公の御霊は御廟所に移し、「御堂」は未使用の状態でした。翌九年十二月九日、長命寺十五代住職静了玄然は、檀頭惣代遠藤左右衛門・檀中惣代神尾次郎兵衛とともに、上杉景勝と長命寺善乗以来の由緒を義社宛に提出、十二月十四日に本尊安置の本堂として「御堂」の移転が許可されました。「上杉謙信公位牌」と嘉永三年の棟札も当寺に移されています。