蓮如筆「六字名号」

蓮如筆「六字名号」 

蓮如筆「六字名号」

絹本著色  縦95.5cm  横36.5cm

 

 蓮如は、長禄元年(一四五七)父存如の跡を受けて本願寺八世の職を継承した。当時の本願寺は、仏光寺などの繁栄に比べ、困窮の極みに達した状態であったが、蓮如は独白の布教活動で教練の拡大を図った。宝徳元年(一四四九) ・文明二年(一四七〇、一説では応仁二年・一四六八)・文明七年の東国教化や、吉崎を中心とした御文の授与、本尊や名号などの聖教の下付がその好例である。この結果、蓮如は、地方の自立教団として勢力のあった水辺派・仏光寺派・専修寺の三河門徒を自らの勢力下におき、本願寺中心の体制に組み替え、聖教の下付を通じて本願寺末寺の拡大を図ることに成功した。

 長命寺のあった信濃では、次のような蓮如の裏書が発見されており、長禄四年(一四六〇)ころからの蓮如の布教が跡づけられる。
  長禄四年二月十四日  高井郡小柳郷井上行善 阿弥陀如来像
  長禄四年二月十四日  高井郡大岩郷普願寺  阿弥陀如来像
  文明十一年五月十八日 水内郡太田庄長沼(現上越市)浄興寺巧観
                                七高僧絵像
  文明十五年九月二八日 水内郡太田庄長沼(現上越市)浄興寺巧観
                                法然絵像
  文明十五年九月ニ八日 木内郡太田庄長沼(現上越市)浄興寺巧観
                                親鸞聖人像
  文明一六年七月二八日 水内郡柳原庄駒沢村長命寺明乗
                                阿弥陀如来像
              (「真宗史料集成」  『信濃国諸記』)

 このなかで長命寺蔵の「六字名号」は、残念ながら下付された年月や蓮如の裏書はないが、本山の鑑定により、蓮如の筆であることが証明されている(明治九年五月五日「証券」)。彼の筆のなかでも堂々とした大ぶりなものであり、筆力から押して信濃長命寺に「方便法身尊像」が下付された時期に近いものと推定される。 蓮如裏書のある「六字名号」の類例が少なく、また長命寺のあった信濃の国には名号授与の例が知られていないだけに、貴重なものである。